LIFE VIDEOとは

サンプルムービー

LIFE VIDEO各パックのサンプルムービーや、
LIFE VIDEOのプロモーションビデオなどをご覧いただけます。

※ご本人の了解をいただき公開させていただいております。

国際移植者組織 トリオ・ジャパン 設立25周年記念
「今日の命を救うために」 NEW

1時間15分54秒

臓器移植を必要とする患者や、臓器移植を受けた患者、およびその家族が、よりよい社会生活を送るためのサポートを行う団体として1991年に発足した、トリオ・ジャパン。

臓器移植患者らが直面する、さまざまな問題に対しての相互援助と、臓器移植医療を広く社会に定着させるための啓発活動を目的としています。

2016年3月15日放送のラジオ番組『爆笑問題カーボーイ』では、同じ事務所の芸人(元・お笑いコンビ「キリングセンス」)萩原正人氏が肝硬変で生死の境をさまよっていた時に出会った、トリオ・ジャパンの事務局長、故・荒波嘉男氏(2016年3月逝去)について触れられていました。

WHOの総会で「臓器移植のための渡航自粛」を促す決議案が採択され、「移植が必要な患者の命は、自国で救える努力をする」という趣旨のもと、日本では臓器移植法の改正が行われました。

これまで、臓器移植を行うには海外しか道がなかった小児患者には特に朗報だったはずが、臓器提供数の問題もあり、国内での移植はなかなか進んでいません。

「今日の命を救う」ためには、日本国内で待ちきれず、まだ海外での移植をせざるをえない現実があるのです──。

このビデオでは、現会長・野村祐之氏や、荒波氏、過去にトリオ・ジャパンの協力で海外移植を行った、患者さんやそのご家族、医師、そして、爆笑問題のお二人と萩原正人さんのインタビューなどで、「トリオ・ジャパン」25年の活動をつづっています。

電波少年・出演者に“アポなし”で会いに行こう!
香港・ホテル探し編

17分47秒

T部長、TプロデューサーことLIFE VIDEO代表取締役社長・土屋敏男が、
電波少年の出演者にアポなしで会いに行く……という本企画。

香港でチューヤンに会いに行く途中、電波少年恒例のホテル探しをすることに。
白羽の矢が立ったのは同行ディレクター。

海外は初めて
海外ロケはもちろん初めて
おそらく英語もダメ
おまけに方向オンチ!?

そんなディレクターは、無事にホテルを確保することができるのか?
それとも、土屋もろとも野宿になってしまうのか……!?

電波少年・出演者に“アポなし”で会いに行こう! NEW

9分9秒

「電波少年・出演者に“アポなし”で会いに行こう!香港・チューヤン編」
電波少年シリーズ、久々の撮り下ろしは、あのチューヤンの登場です!

T部長、TプロデューサーことLIFE VIDEO代表取締役社長・土屋敏男が、
電波少年の出演者にアポなしで会いに行く企画。
アポなしで香港に向かった土屋。チューヤンの働いているオフィスで待ち伏せするものの、
うろうろする土屋は周囲から怪しまれて……。

チューヤンと会うことができるのか?
そして、会いに行った目的とはいったい……?

わくわく今昔写真の旅(ダイジェスト)

10分32秒

2015年8月1日から9月20日までの51日間、
大学生が自転車で日本一周するプロジェクト『わくわく今昔写真』。
“わくわくに満ちた人生を追求する会社”株式会社 和久環組(わくわく)が
さまざまな形で行っている学生支援の一環として、大学生たちは自転車の旅に出発した。

しかし、この旅には“あるプロデューサー”の存在があった。
『Tプロデューサー』こと、土屋敏男である。

土屋から課されたお題は『自転車で日本を一周しながら、全国各地の今昔写真を集め、
今昔マップを完成させること。そして、旅の記録を自ら撮影すること』。

こうして神奈川をスタートした大学生たちは、栃木~福島~宮城、
そこからはフェリーで北海道へ!
再びフェリーに乗り、青森~秋田~山形~新潟~富山……と彼らの旅は続く。

行く先々“アポなし”で訪ねた先の人との出会い。
そして入手した貴重な古写真と、それにまつわるエピソード……。

旅先での『わくわく』した体験を通じ、彼らは何を手にしたのか。
旅に出る前とあとで、彼らに起きた変化とは──。

サンプル(先祖のLIFE VIDEO)

18分09秒

祖母のために曽祖父のLIFE VIDEOを作ってくれませんか-
ひ孫さんからのご依頼でした。

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19世紀終わり、当時鎖国のチベットを目指した3人の僧侶がいた。

能海寛(のうみ ゆたか)、河口慧海(かわぐち えかい)、
曽祖父は、その1人、寺本婉雅(てらもと えんが)だった。

若き僧侶が、命をかけて
チベットを目指した理由は何だったのか?

日本の仏教、後のチベット学に大きな貢献を果たした人物でありながら
あまり知られることがなかった寺本婉雅の姿とは?

その姿を求め
大谷大学で保管されている
「北京版西蔵大蔵経」に辿り着いた…

サンプル(家のLIFE VIDEO)

30分04秒

125年前に曽祖父が建てた家を映像で残したい―

終戦の年に生まれ、3年間住み、その後も休みの度に過ごしていた思い出の家が
取り壊されることになった。

曽祖父の匂いがする 着替えの間
夏、涼しく、蚊帳を吊るして寝た 座敷
畑や温室で野菜を育て、春にはしだれ桜、秋にはたくさんのもみじがきれいな 裏庭
竹で編んだ天井で湿気を逃がし、今でも傷んでいない 洗面所と浴室
自分が産声をあげた思い出深い 三畳間
貴重な欄間やとてもモダンなデザインの障子がある 客間
自分と共に成長した桐の木が眺められる、父の書斎
母の愛用の薪ストーブがある 台所...

たくさんの家族の記憶と共に“家”がある。

サンプル(世界平和パゴダ)

10分47秒

関門海峡に面した北九州の玄関口、門司港を見下ろす和布刈公園に、不思議な形の建物がそびえ立っている。日本で唯一のミャンマー式寺院「世界平和パゴダ」。ミャンマーから派遣された僧侶によって、日々祈りがささげられている。

昭和33年に世界平和祈念、日本・ミャンマー(当時のビルマ)親善交流、そして、太平洋戦争戦没者慰霊のために、当時の門司市や、ビルマ戦線の帰還者ら、有志の手によって、ミャンマー政府仏教会の協力のもと建てられた。

ビルマ戦線──それは24万人の日本兵のうち14万人が戦死した、大変悲惨な戦闘地域であった。太平洋戦争の開戦まもなく、当時、陸海軍基地だった門司港から、多くの兵隊が、大陸やビルマをはじめとする南方戦線へ出征した。

戦争を知る世代が高齢化で減少する中、自らもビルマ戦線を体験した三木さん、96歳。
ビルマで散った戦友たちの慰霊のため、三木さんもパゴダ建立と維持のために長年かかわってきた。

しかし、戦友会の高齢化や、パゴダ建立当初から長きにわたり仕えていた大僧正の死去により、平成23年に一時、閉鎖を余儀なくされることに。建設から半世紀あまりが過ぎ、老朽化も目立ってきた。

平成24年春、東日本大震災犠牲者の慰霊のため、ミャンマー仏教会会長が来日。世界平和パゴダの閉鎖と老朽化に深く心を痛めた氏の指示でパゴダが再開、再びミャンマーからウ・ウイマラ大僧正ら二人が派遣された。

そして平成26年5月、27名の僧侶がパゴダに来院、日本とミャンマーの友好と戦没者慰霊のため、前年に引き続き、5日間、約100時間に渡りお経を唱え平和と安寧を願うミャンマー仏教の祭典「パターン祭」が行われた。

法要には地元住民も多数参加し、日本とミャンマーの人的、文化的交流を実現するとともに、老朽化した施設再建への呼びかけも行われた。

来年で戦後70年。戦争の悲惨な記憶が遠ざかる今、世界平和パゴダに響く読経には、さまざまな人々の永遠の願いがこめられている。

プレミアムパック サンプル(山岡民枝)

20分38秒

人生を子・孫に伝えるために制作(息子より制作依頼)
ディレクター・インタビュアー : 土屋敏男

終戦間近の昭和19年、今治に生を受け『しゃにむに働いた』ある女性の物語です。
代々、造園業と農業を営む家に8人きょうだいの次女として生まれ、使用人を何人も雇う豊かな家だったが、戦後の混乱期に父が人にだまされ、生活は苦しくなっていく。

よく手伝いをし、きょうだいの面倒も見ていた彼女は勉強が好きで成績もよかったが、経済的に高校進学が危ぶまれていたが中学校3年次の先生が毎晩両親を説得しに来たという。その甲斐もあって県内有数の進学校に通うことになった彼女は、母親にこんなことを言う。
「高校を出て働き始めたら、仕送りするけんね」

高校卒業後は製材所で事務員として働きながら、約束どおりに親に仕送りを続ける生活が始まった。ここでも彼女の才気はみなぎり、あっという間に会社の経理全般を任されるようになった。
一人暮らしをする間に運命の男性と出会う。大阪の油問屋で丁稚奉公をしたあと、今治に戻り「これからは油だ」と単車で仕入れた潤滑油を売る商売を始めていた。二人は愛をはぐくむうちに「彼の商売を拡大させる」という共通の夢を持つようになる。

医師から余命を告げられたあの日、母の手を握り泣いた。二度と会えなくなる日が来る──。
信じがたい現実を前に途方にくれていた私に、従兄から「お母さんの人生を映像として残そう」と話がありました。それはライフビデオが会社になる前のことでした。

ガン細胞の脳への転移に、母は言葉を失いインタビューは無理、撮影準備の段階で母は永遠の眠りにつきました。母のアルバムから褪せた写真を一枚一枚取り出し、土屋さんと二人っきりで長時間、母の話をしました。

四十九日の法要に納品されたビデオを親族一同と見ました。「民ちゃん」「姉ちゃん」「ばあちゃん」それぞれの呼び方で、私も「母ちゃん」と……。
人は忘れ行く生き物ですが、ビデオがある限り忘れない、それぞれの絆と思い出を。

偉大なる母よ、あなたはライフビデオの種をまいて天へと召された。ゆっくりと成長と絆を見守ってください。ありがとう。土屋さん、スタッフの皆さん。

プレミアムパック サンプル(江戸独楽職人 小宮耕生×萩本欽一)

27分41秒

インタビュアー : 萩本欽一
ディレクター : 香川春太郎・土屋敏男

江戸独楽、それは江戸時代に流行した曲独楽を元に、
その回転力をからくりの仕組みに応用した、
洒落っ気のある、見ていて楽しい動きをする、木製の変わり独楽のこと。

芸術的な挑戦をし続ける、現在では数少ない江戸独楽職人の小宮さんは、
伝統を守りながらも革新的な作品を作り続けている。
その製作現場を萩本欽一が訪ねた。

小宮さんは元・中学校の社会科教師。
江戸独楽との出会いは授業で使った、江戸時代の文化を象徴する道具を集めていたときのことだった。
子どもとの独楽遊びを授業に取り入れるうちに、江戸独楽職人を訪ねた小宮さんは技術継承を申し出るも師匠から、その道一本でやっていくことを条件として提示される。
「教育とは、教壇に立っていなくてもできる。」
悩んだ末に小宮さんは教師の道を捨て、職人として生きていくことに決めたのだった。

親孝行パック サンプル

32分13秒

亡き夫との思いでを残すために制作(80代・女性)
ディレクター・インタビュアー : 小島悟

3年前に亡くなったご主人へのラブレターを綴っていた、大正生まれの女性。
そのノートをもとに夫婦の歩みをLIFE VIDEOで残すことに。

大正から昭和へ時代が大きく変わろうとしていたころ。
軍人の父、料理や洋裁が得意だった母の間に5人きょうだいの次女として大阪で生まれ、
優しい両親の元、愛情をたっぷりと注がれて育った。

思春期を戦争とともに疎開先で過ごした彼女だが、
終戦を迎えると、高輪の自宅で花嫁修業の日々を送ることになる。
5年後のある日、親しい知人に誘われ学生たちの集まりに出かけた彼女は
昼は横浜の進駐軍病院に勤務、夜は東京歯科医科大学の教授の下に通っていたある男性と出会う。

なんと出会ったその日にプロポーズを受けた彼女は、昭和25年に結婚したものの、
夫の仕事の都合で離ればなれの日々。
さみしさを埋めるために毎日ラブレターの交換を続けた二人だった。
「今は苦しくても大変でも、絶対に幸せにしてあげるから我慢してくれ」
その言葉を受けて、一生ついていこうと決めた彼女であった。

二人の子どもに恵まれた夫婦は、優しくも厳しく子どもたちをしつけ
定年後も多彩な趣味と旅行を楽しみながら年を重ねていくが、
やがて、二人が離ればなれになる時は静かに近づいていた──

いろんな話を思い出すことができて本当に嬉しい。
こんな良い思い出を作ってもらえるとは思わなかった。
完成品を見て、おもわずほほずりしたら、涙が出ました。みんなに感謝感謝です。

基本パック サンプル

27分26秒

ディレクター・インタビュアー : 土屋敏男

昭和13年、内科医の父の下に東京で生まれ、子どものころに疎開経験をした一人の男性。
遊びを嫌い、仕事一途だった父に反発していたものの、いつしか自らも医者を目指すようになる。

「内科医だけにはなるな、跡をつごうなんて甘い考えで医者になるな」という父に対して
「父とは違う生き方をする」と誓い、勉強だけではなく馬術にのめりこむ。

京大在学中、馬に乗っているときに出会った“おてんばな女の子”とのちに結婚。
卒業後は放射線科に進むことになり、勤める病院が変わるたびに夫婦は移り住む。
やがて二人の娘に恵まれた夫婦。
子どもに干渉はせず、娘たちは自立心旺盛に育っていった。

ある日、自身で肺がんを見つけた父が、勤務先の病院に入院することとなる。
「死に至る病気にあれこれ施すな」と積極的に治療をしようとはしない父だったが、
その最期に医者として付き添い、ずっと父親とは距離をとってきたものの、
一生の中で一番、たくさん話すことができた。

その後度重なる病魔を乗り越え、震災後、原発事故をきっかけに
放射線科医としての使命感から福島に渡る──。

プレミアムパック サンプル

32分42秒

会社編・個人編を制作(新居浜市男性)
インタビュアー :土屋敏男
ディレクター :近藤泰教

不器用さゆえの努力、人一倍の負けず嫌い。それが彼の持ち前である。
そして、人生のそばにはいつもソフトボールがあった──。

父親の思い出。それは8歳の誕生日に、はじめてもらったグローブ。
毎日壁に向かって一人キャッチボールをするうちに上達していくのが自分でもわかったという。
「運動神経もさほどいいほうではないし、人の倍努力して一人前、ということだったのだろうか」
父がグローブを買ってくれた理由を本人はそう分析する。

母譲りという負けず嫌い。
そんな母親は、戦争中、職業軍人として夫が出征している間に、
子どもにみすぼらしい格好をさせないようにとひたすら働き
家まで建てたという逸話の持ち主。

中学以降、喧嘩や遊びに明け暮れていた生活を一変させた「教えの葬式」とは?
これでもか!とやってくるピンチを乗り切った両親の教えとは…?

こんなに涙腺弱かったかなぁ。
こんなに人にじっくり話を聞いてもらったことなかったから、ホントに良かった。

おまかせパック サンプル

30分54秒

ディレクター・インタビュアー : 土屋敏男

10歳の時に起きたある出来事がきっかけで、家を失いバラバラに生活することを余儀なくされた一家。
父は大阪に出稼ぎ、子どもたちは母親とともに親戚を頼って暮らした。
働き詰めの母親を楽にするため、定時制高校に進学し、
昼間は働いて学費を捻出した。

大阪万博の年、母と妹は大阪の父の元へ、自身も高校卒業の翌年に大阪に行き一家は10年ぶりに家族全員がそろうこととなる。
大阪では父を手伝いながら電気工事の仕事を学んでいった。

同棲していた彼女と結婚。母の勧めで結婚式を挙げたが、
式が終わるとすぐさま着替えて仕事に行かねばならぬほど忙しかったと語る。
二人の娘の誕生も仕事の現場で電話で知らせを受けた。
「飛び上がって喜んだ。子どもを抱いて『自分の分身だ』と思ったときには涙が出た」
と当時を振り返る。
「感動やね、感動や」。

その後、父の跡を継ぎ会社の代表になるが、その直後に危機が訪れる……

完成試写

2分12秒

おまかせパック(現・基本パック)で作られたお客様のお宅に伺い
試写後の感想をお聞きしました。

完成試写 その2

3分04秒

亡くなられたご主人との思い出を綴ったノートを元に「夫婦の思い出」を映像で残された奥様。
完成試写後のご感想をうかがいました。
そして、ビデオが届き、開封したあとにとった彼女の行動は?

LIFE VIDEO プロモーションビデオ

1分22秒

「1分でわかるLIFE VIDEO」。
サービスの見どころをギュッと凝縮してお伝えいたします。

基本パック サンプル(吉田克幸)

9分01秒

人生の記念として制作(60代・男性)
ディレクター・インタビュアー : 大塚恭司

戦後間もない昭和22年、吉田カバン創始者・吉蔵の
5人きょうだいの末っ子として誕生。
勉強は大嫌いだったという克幸は19歳で大学をドロップアウトする。

23歳でドイツへ留学。しかしドイツには馴染めず悶々とした日々を過ごすが
25歳のとき、ロックカルチャーが炸裂していた70年代初頭のロンドンにわたると
その感性が開かれることになる。その後、パリ・ニューヨークへと旅は続く。

結婚後は父の会社に就職、子どもにも恵まれ、公私共に充実した70年代後半を送る。
80年代に入ると自身がデザインしたカバンが海外で認められるようになり、90年代には
デザインしたカバンが国内で爆発的にヒット。

父、母の死、さらには自身の闘病を経たのち、長男とPORTER CLASSICを設立。
父から受け継いだもの、さらに息子に受け継がれる“ものづくりスピリット”とは。

すっげぇって思うね。だって息子が死んじゃっても、孫、その子供たちが全員見れるんだよ。
すごいことだよ。自分の生き様みたいなのを撮ってくれて、もう何もいい残すことはございません。

おまかせパック サンプル(土屋久)

10分05秒

ディレクター・インタビュアー : 土屋敏男

大正15年、静岡県に9人兄弟の末っ子として生まれ
航空隊に入隊し戦争を経験、復員後は「何か国のためになることを」と考え
警察官を志し、合格。結婚後は3人の子どもに恵まれる。

「自分の考えを仕事に生かすには上に立たないとできない」と昇進試験を受け
生まれ故郷に程近い下田警察署長時代には、来日中のカーター大統領が下田に来訪した。

警視正に昇進後、退職。
退職後はこれまでまったくやらなかった社交ダンスやゴルフを始め、
各地へ海外旅行に出かける。今は家族と食事や旅行をすることが一番の楽しみという。

そして映像の最後、「あと1分しゃべってください」といわれたあとに出た一言とは?

その他作った方の感想

自分の人生の区切りとして制作(50代・女性)

私の人生なんて・・・と最初は思っていたけれど、このビデオを作って、まんざらでもないかなって、思いました。見ていて泣けてきました。自分のことなのに、見ていると自分の人生が深まる感じが驚きでした。

父親の退官記念として制作(息子・娘より制作依頼)

本人(父)ライフビデオの制作過程で、親子で触れあう時間が幸せでした。映像の力はすごい。自分の人生を色鮮やかに残るというのは一人の人間としてまんざらではないと心から実感した。
子供(息子・娘)
プレゼントした父親にだけでなく、まわりの家族、親戚も想像以上に喜んでもらい、家族の宝物になりました。

人生を子・孫に伝えるために制作(80代・男性)

何だか、もっと作りたくなっちゃったなぁ!
(ご友人)これはスゴクいいね!特に戦争に行ってたところはさ、いくら口で説明されても映像にはかなわないよ!

会社編・個人編を制作(大阪市・男性)

人に勧められて作ったのですが、作って良かったと思った。まだまだ人生の途中、自分には不要だと思っていたが、これまでの人生を振り返る意味でも、家族に感謝の意を残す意味でも作って良かった。