LIFE VIDEO のパンフレットにその使い方の例が書いてある。「還暦、喜寿、米寿のお祝いに」とか「会社の創立記念日に」「社員教育に」とか書いてあり、その一つに「ご葬儀に」と書いてある。
その使用例の第1号が自分の父親になるとは思っていなかった。
LIFE VIDEOという新しい事業を始めるのになるべくたくさんの人のものを作る経験を持ちたいと思うのは当然のことである。それで創業前に自分の父親のLIFE VIDEOを作ることにした。実はLIFE VIDEOの有料顧客第1号は自分の父親である。

このビデオは10分ほどに編集されているが、実際納品したものは19分くらいある。
これを4月9日に89歳で亡くなった父の通夜と葬儀に流した。
とてもよかった、と思った。
自らの口で自分の人生を語る父。戦争に志願した理由。終戦。警察官になった理由。母との出会い、結婚。子供達が生まれた時のこと。警察官としての自分の信念。そして何より「自分の人生を振り返って」という質問に対して『こんな幸せな人生を歩んだ男がどこにいる』と言い切ってくれた父の姿が祭壇前のスクリーンに映し出された時は「よかったね、とうさん!」と言いたかった。

父の葬儀のタイミングで連載している「水道橋博士のメルマ旬報」の締め切りが来て、他に書くことができずそのことを書いた。
父も許してくれると思うので転載する。

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人はもれなく死ぬ。
だから年齢順に死ぬことを過剰に悲しんではならない、と思っていた。
父が10日前にあの世に行った。
89歳だった。日本の平均寿命を超えている。
しかし2度と会えない、話せないと思うと悲しいものは悲しい。
何かと比較して「順番だから」と言ったりするのは、自分を納得させる慰めなのだ。
死に目に会えなかった。息も止まって心臓も止まってドライアイスで周りを囲まれた冷たい父に会った。唇は薄く開いていた。
「明日の朝は起きるよ」と言っているような普通の眠っている顔だった。
「ああこの人は自分が死んだことに気がついてないな」と思った。
そういう人だった。「死んだらどうする?」という話題が大嫌いだった。
先祖代々の墓が遠いから静岡に墓を買うという話はずいぶん昔から出ていたのに「うんうん」と言いながらいつまでも具体的に進まなかった。
家のお金の管理を全部自分でやっていたから「死んだら誰もわからなくなるんだから何かに書き留めておいてね」と言っても、これも「うんうん」と言いながら結局書いてなかった。だから今、郵便物から口座のあったであろうところを推測して問い合わせを一軒一軒している。
「自分がいつか死ぬ」ということを認めたくない人なんだな、と思っていたから死んだ今も「死んでないような顔」をしているんだな、と思った。
ドライアイスで恐ろしく冷たいのに。
最後は肺炎で咳き込んだり息が苦しかったはずなのに苦しそうな顔はしていなかった。それは遺された者には良かったのだが、とにかく「まだ死んでない」顔をいつまで続けてくれるのだろう? と思ったのだ。
二晩家にいて通夜の日、昼過ぎに葬儀場に一緒に移動した。
着いたらまずお風呂に入る(入れる)。それは係りのふたりの若い女性がやってくれるから別室で待つように言われる。映画で見たモッくんが演じたあの係りの人だ。死んだ人が男だとお風呂に入れる担当が女性なのだろうか? とも思ったが「何かご質問はありますか?」と聞かれた時に言うことはできなかった。
おそらくその時に空いていた人が女性男性問わずやるのだろうが、自分の時は女性がいい。
小一時間で「着替えも終わりました」と呼ばれた。顔が変わっていた。
風呂に入る前にはうっすらと開いていた口が真一文字に閉じられていた。
「鼻毛は切ってくれ、眉は整えてくれ」と言ったが「口を閉じてくれ」とは言わなかったのに、そうなっていた。
「キリッとしたねえ」と母が言った。「さっきまで家にいる顔だったのに、これはお巡りさんをやっている職場の顔だねえ」と言った。たしかにそうかもしれない。しかしよく見ると真一文字が真ん中の少し右のところがほんの少し歪んでいた。
「これは直せるだろうか?」無理な気がしたから黙っていた。
「何か気になるところがございますか?」とその係りの若い女性が聞いてくれたので「髪型を直したいので櫛を貸してください」と言った。オールバックになっていたのだが、父はずっと七三だったからだ。
通夜になってそのまま葬儀場に泊まって、朝が来て午前10時半の葬儀の時間になった。
一緒に泊まった部屋から葬儀会場に出て行く時に顔を見たら真一文字の口が緩んで優しい顔になっていた。「ほらもう一度家にいる時の顔になったよ。見てごらんよ」と母と兄と妹に言ったが強い賛同は得られなかった。しかし僕は「顔の変化を見るプロ」なのだ。それは間違いない。家にいた時の顔に戻っていたが「まだ生きている」と思っているパーセンテージも減っていた。もう生き返ることはない、と自分でも諦めた顔だった。
葬儀が始まり終わった。
斎場に移動する前に身体の周りにお花を入れて、蓋をする前にもう一度七三に櫛を入れた。
何度かお葬式に出て出棺を見送ったことはあったが、見送られたことは「初めてだ」と思いながら霊柩車に乗って出発した。出発の時に長いクラクションは鳴らさなかった。これが静岡式なのだろう。
静岡斎場に着いた。
随分とたくさんの人が焼かれるためにやってきている。13時頃だったから一日のピークの時間だったのだろう。
"最後のお別れの時"と区切られた時間を過ごし、「では」と言われ、自動ドアが開きお棺がボイラー? 焼き釜? の中へ入っていった。ドアが電動で閉まって行く。「とうさん!」と叫んでいた。
「焼きあがるのに一時間ちょっとかかります」
『焼きあがる』確かに火葬場の人はそう言ったと思う。

ひとりで控室から外に出た。
最近の火葬場には映画で見たような煙突がないのだった。