「夢と狂気の王国」がLIFE VIDEOに改めて教えてくれたこと
30 November
とにかく今日中に書かないことには、せっかく続けて来た「ほぼ月刊 LIFE VIDEO LIFE」が途切れてしまうということでアセって書きたいと思うのです。
宮崎監督作品「風立ちぬ」と高畑監督「かぐや姫の物語」の制作中のスタジオジブリに約一年。あの「エンディングノート」を撮った砂田麻美監督の2作目が「夢と狂気の王国」。
とは言ってもただの映画のメイキングフィルムでないのは言うまでもないことです。
僕は制作発表された7月から密かに「見たい見たい」と念じていて、9月の「100時間うらどりプレス」で川上さん(本作品で見習いではなく一本立ちのプロデューサーデビュー)に来ていただいた時には「本当に公開されるんですか?」と聞き(この話した日に第一回のプロデューサー試写があったそうで、その後完成した後に会った時には「あのとき見たものとは随分変わりましたよ」ということでした)と、今年公開された映画の中で「自分的見たい度No1!」の作品だった訳です。
そして公開日の翌々日新宿バルト9で見た時には。。。
期待し過ぎて観に行くと映画って結構がっかりしちゃうことが多いんですよね〜
なんて事が全くなく、予想を遥か遥か天空を突抜け、身体と心の芯をグラングラン揺さぶられる作品に出会ってしまった訳です。
でそれだけ身体ごと持って行かれる作品だと冷静に細部まで見ていない(まあ映画ですから身体、心全体で受け止めるは理想的な見方なんですが)もう一度見たいと思っていたら娘が見に行きたいというので横浜ららぽーとに行きました。(しかし日本ではドキュメンタリー映画は冷遇される。公開館数があまりに少ない。神奈川で川崎とここだけでした)
で1回目、2回目と見てスゴく感じたのは
ドキュメンタリーとは「何かを撮る」ではなく「何を撮らせてもらえるか?」だと言うことです。
ドキュメンタリストが密着◯年間!なんてことを言いますが長さなんて全く関係ない。
そう言う目線が「何を撮るか?」「何を撮ったか?」「秘密を撮ったか?」「何を暴くのか?」という間違ったドキュメンタリーの作り方への考えを生んでしまうのだと思うのです。
これは何故なんでしょう?
ドキュメンタリーの最初がジャコペッティだったりの「未開の地を行く」的なものが多かったからでしょうか?
ダイオウイカみたいなものは「何が撮れたか?」がその年月の長さと比例するのかもしれませんが
でもやはりそこでも「撮らせてもらった」感は現場では強いと思います。
だって海の底でダイオウイカに会う確率も、アマゾンの奥地でそこに住む人たちが心開いてくれる確率も、年末ジャンボに当るようなことだと思うからです。
さて完全自然ものから動物、そして「人」に対象物が変わると「撮る」より「撮らせてもらう」が強くなります。
そしてそこで大切なのが「心を開いてもらう」ということです。
カメラがあると人は必ず警戒します。
それは僕でもそうです。そこで記録されたものが誰にどんな風に見られるかわからないからです。
では「心を開いてもらう」ために一番大事なことは何でしょう?
それは「好きになってもらう」なのだと思います。
この映画の中で砂田監督は宮崎さん、鈴木さん、高畑さんジブリの皆さんから好きになってもらえていることが伝わってきます。更に言えばこの自分たちをとっている作品が自分たちにとって「よいものになる」と信頼し切って、さらにその監督、作品に対してリスペクトがまだ何も見ていない撮影されている最中に確実に生まれているということだと思うのです。この「よいもの」というのは当然「自分たちにとって都合のよいもの」と言う意味ではなく、自分たちをこの人の視点で切り取られたものは「よきもの」であろうという信頼です。
テレビと映画。テレビと音楽。テレビとアート。テレビとお店。
テレビは莫大なリーチを持つがためにそこで紹介されることが利益をもたらす、プロモーションになるという側面があります。だからテレビのドキュメンタリー的なるものはその落とし穴にしばしば入ってしまうことがあります。映画のメイキング映像をテレビで放送することは本来的に言えばプロモーション以外の目的はないのですから。これは映画現場の人にとって「都合のいいもの」ですから多少無理をしても協力はする。
でも、残念ながらそこで立ち止まってしまうことがあるのです。心を開くと言うはるか手前の段階。「おつきあいする」ところで。
この映画「夢と狂気の王国」はそんな次元では全くありません。
何故でしょう?
この映画のサブタイトルは「ジブリにしのび込んだマミちゃんの冒険。」となっています。
まさに砂田監督がこわごわとジブリに入って行き、どんな空気が流れているかを一生懸命感じようとしてその姿勢を見てジブリの人たちが「彼女にはここを撮らせよう」と言う心の開き方(無意識な)をした結果だと思うのです。
「ここ」とはもちろん本人達も無自覚で「いつも言っていないここを言おう」とかいう"ここ"ではなくて、誠実に聞かれることにできるだけ誠実に答えようとするとかそう言うことだと思うのです。
で結論ですがLIFE VIDEOもまさにそうで
その人の人生の何を撮らせてもらえるか?何を撮らせようと思っているのか?が大事で
そのためにはその人に信頼してもらえるか?その人に好きになってもらえるか?その人に心開いてもらえるか?
だと思った次第なのです。
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