テレビは「みんなに愛されるもの」を作ります。
これはコピー=複製というものがされるようになってから、当たり前になって来た表現の結果のコンテンツのビジネスモデルであると言えます。
文章。それを書かれたものが印刷され出版され流通にのり本屋に並べられそれぞれの人が手に取りそれぞれの心の中に入り込みます。
音楽。それを描かれたものが演奏され録音されつまり電気信号に変換されてプレスされあるいはサーバーに置かれそれぞれの人が手に入れそれぞれの心の中に入り込みます。
映像。それは演じたものあるいは記録されたものは最初から電気信号に変換されていてコピーされたくさんの人の集まっているところで映写されるか配信システムにのって届けられそれぞれの心の中に入り込みます。
それぞれは表現物と言われて「作り手」がいて送り出しますが、送り出した瞬間にそれは「受け手のモノ」になると言われます。
そう、それはそれぞれの受け取り方がそれぞれの心の有り様で違うはずだ、イヤどうも違うようだと思われるからです。
というのは、同じ人間でも同じ作品をどう感じるかが、その人間の年齢とか環境、状態で違う事を明らかに感じるからで、感じる事は人によって違うであろう事が容易に想像できるからです。
それぞれの作品は受け取る側によって違う形をしているのだと言えるのです。
ところが文章、音楽、映像がたくさんそれぞれの人に「それぞれの受け取り方」をされるに関わらず、それが「よかったかどうか」と言う尺度で計られる時に「それぞれの人」は『みんな』になります。
みんながいいと言ったのか?みんながお金を出して読んだのか?みんながお金を出して聞いたのか?みんながお金を出して見に行ったのか?みんなが広告付きのそれを見たのか?
そして価値のある表現物とは『みんな』がより多いもの、ということになっていきました。
これは作り手側にも作用してきます。より多い『みんな』に届く様に作るようになるという事です。
そもそも「受け取る人がいない表現物」なんてのは意味がありません。それは表現物の定義とさえ言えるものですからそれが多いということを目指すのは一面で当然の事です。
送り出すんだから、たくさんの人に「いい」と言ってもらいたい。それが「届いた、つまり心の中に入り込んで揺り動かした」という事だからです。
表現は「思いつく事」がそれが生まれる瞬間です。
そこではおそらくコストはゼロです。
しかしそれを形にして印刷やプレスや配信などのコピー、流通をさせるにはコストがかかります。
表現物が生産され続ける為には、このコストを回収するつまりビジネスモデルを満たしている事が必要になります。
そしてこの表現物の到達する『みんな』がたくさんであればある程このコストを回収してさらに利益が出ることになります。
だから作り手からスタートするこの表現物に関わる人たちは〈『みんな』がたくさんである事〉を願うようになります。
つまり当然の事であるのですが、表現物は生み出されるスタートの地点から『みんな』はたくさんかどうか?を検討されるようになります。
みんなが好きだと言ってくれるか?この文章は、この音楽は、この映像は。
でも手に取ってもらえなければ「いいかわるいか」も判断してもらえない。
だから手に取ってもらえる方法が検討されるのも当たり前の事です。
手に取ってもらって、それがたくさんの人に届いて、いいと言ってもらえる。
これが表現物の幸福なゴールです。
しかし残念ながらこの幸福なゴールはわかっているのに、それを目指しても『みんな』に届き、いいと言ってもらえる事は少ないのがみんなが知っているように現実です。
今の『みんな』は何を求めているのか?何を作ったら手に取ってくれて、いいと言ってくれるのか?
これは誰にも予測はつかない。
ある時、それを予測できると言うプロデューサーが出現したりもします。
それはどれだけこの表現物の流通に関わる人たちを勇気づけるでしょうか?
でもそれもある時"永遠でない"事がわかります。
しかしそれでも「当る占い師」を求めるように、それは求められ続けます。
それは「当るも八卦当らぬも八卦」と知っていながら。

さて表現物がそれぞれの人の心を動かすために、そしてそのそれぞれの人が数として足された『みんな』がたくさんであればあるほど表現物は幸福になるのでそれを目指すようになります。
本来は「それぞれが"受け手"の動かされ方は違う」のに、数=お金が動いた結果に変換されると、その動かされた様子、その深さは関係ないものに成り勝ちです。
本当は「心がどう動いたか」が表現物にとっての目的だったはずなのに、数字だけが目的になり勝ちです。
そしてその数字だけを残せる作家が重宝され、作り続ける事を許されるようになり勝ちです。
(成り勝ちとこれだけ書くのは幸いな事に100%そうはなっていないのですが、少なくない割合そう考えてしまい勝ちだからです)
作家も『みんな』を意識します。つまり『みんな』の共通項を探すということになります。
それぞれではなく『今のみんなの共通項』とは何なのか?
それを見つけた時にメガヒットになり、表現物はそれに関わった人たちを幸福にするゴールを迎えるからです。
だから自分からだけでなく周りからも数字を上げるような精神的な圧力がかかって来るようになります。
知らず知らずのうちにです。
それは作り手の内から生まれるものではなく、外への予測、になっていったりします。
この共通項という受け手一人一人にとっては「薄さ」が莫大なコンテンツ群になった時に気になるものになるのではないか、というのが問題意識のスタートでした。

現代はこの表現物を取り巻くシステムが大きく変わってしまいました。
表現物の流通経路の数が限られていた時代が終わってしまったのです。
文章も音楽も映像も、本、レコード、映画、テレビという限られた流通経路だった時代が終わってしまったのです。
みんなが文章を書き、音楽を奏で、映像を発表できるようになりました。
そこでコストの回収の方法が崩壊しました。
それが今です。
文章は無料でネット上に溢れているので本は売れなくなり、音楽もコピーし放題だけでなく、それぞれがそれなりの音楽を作る事が誰にでもできるようになりました。それらは若い人たちが市場でしたから"プロとアマチュアの差、才能の有る無し"なんてモノの判断がつく訳がありません。(大体そんなものを誰が判断するのでしょうか?それは『みんな』がたくさんかどうか?が決定する、つまり市場が決定するとして来たのはその崩壊した〈表現物の制作現場、流通に関わる人たち〉だったのですから)
こうして文章も音楽も映像も『みんな』の数字を目指したものが崩壊しています。
幸いにして丸コピーした形跡がはっきりわかる映像が辛うじてビジネスモデルとしては持ちこたえていますが、作家が無限にいるという意味では文章、音楽と同じ道を辿る事は時間の問題だと思う方が妥当だと思えます。それは"映像の変換ソフトの開発"で終わってしまう可能性があるからです。

長くなりましたが、テレビとLIFE VIDEOの違いはここです。
テレビは「みんな」の心を動かすため、から『みんなという数字』に向かいました。テレビ局としてはこのビジネスモデルをどうやって維持し続けられるかという問題に直面し続けるでしょう。
(それはもう一度『みんな』とは表面に現れる数字だけではなくて『それぞれ』がその心の動かされようは有り様、深さの『それぞれ』だという原点を意識する事がこのビジネスモデルを永続させることではないかと思っています)
このテレビが『みんな』に向かって作るのに対して、LIFE VIDEOはたった一人だけの為に作る映像です。
『みんな』がどう思うなんて事を一切考えない表現物です。
つまりテレビとは全く真逆の方向性の映像表現物を作る、という事の意味があるのです。
だからテレビを長く作り続けて来た人間がそれをやる事の意味があるのだと思うのです。
それがどこに辿り着くのかはまだわかりませんが。

一つだけLIFE VIDEOと似た表現物が人間の歴史の中にあります。
それは肖像画。
目の前にいる人をその画家なりに表現したものです。
この世でたった一点の作品。
それがLIFE VIDEOなのです。